本当に一者だ&自我を見つめるとは?【神の使者/奇跡のコース/奇跡講座2015 06 22勉強会より】

本当に一者なんだっていう感じがより深まりましたね。
「なんだこれ」みたいなのを見たからこそ、「なんだこれっ⁈」ていうのを見て
「自分なんだ、これが。」みたいな。

結局自分の姿を見ているだけなのね。鏡に映した自分の姿を見ているだけ。
まあスピリチュアルではよく言うことなんだけど、「いや、本当に一者だぜ」みたいな。

表現しにくいんだけどね、ほんとに一人が、一人の、神から離れたと思っている心が ちょっとした小窓から覗いて、小窓から現れ出るこの腕やお腹や足や この感じを、自分っていうことにして、これが私って名前つけて。
この小窓に付随している(自分の体を指して)これじゃない、向こう側にいる肉体は 誰々さん誰々さん誰々さん、と言って自分じゃない他者っていうことにして、 それをずっと信じている……

劇場を、この小さな、今、見える視野って実は狭いですよね。
この設定の中の移り変わりを、すごい、ただただ信じているだけ。
っていうことは、この視野に現れたり、この私と思っている認識の中でのやりとり 例えば、メールだとしても電話だとしても「全部私じゃん」っていう
なんかその私じゃん感がちょっとなんかね、表現できないんだけどね
言い逃れできない。
その現れてくる、たとえ殺人犯がグっときて、ナイフで、がってやっても
それ自分が、全部自分にやってるのに、言い逃れできないというか……

Aさん 認めたくないですけどね

被害者でいたいし、訴えたい。その形のレベルでは別に病院行ったり、裁判して もいいんだけど、相手が捕まった、みたいにやってもいいんだけど 全部一人でやってる小芝居劇場じゃん……みたいな……
言い逃れできないじゃんこれっ……ていう感じがちょっとあったね。
だからこそ、その自分……相手と思って、チョットチョットって心の中で責めたりとか
攻撃してるその相手って、相手じゃなくて自分なんで

この肉体の自分というか、一人しかいないから 相手を、ちょっとちょっとと裁いているとき
自分自身の心に向かって裁き、有罪宣告を言い渡している
あっそうか、みたいな、 なんかコースの言いたいことが、もうちょっとなんだろう
……ああそうですねって
じゃあ赦す以外ないよねっていう……

なんか自分に向かって切腹ずっとしているみたいな
それをしてるんだっていうことに気がついていくと
本当に正気に戻って 愛することだけしか分からない正気の状態になっていきたいなって思いましたね。

当たり前に、当たり前にやってきたことなんで
なかなかその自我の思考システムの その眠りのテクニックに気がつかない時期もあるんですよね。
いっぱい赦していっても、そういうところ、もうほんと
細かく細かく自分がそういうトリックを採用して、裁き続けている。
微妙に、見えないように、やってるっていう事に 気がつくことができる準備がやってくると
だんだんそこら辺にも気がついていきたいとか
じゃあもっと、ぜひもっと、そういうところをちゃんと見ていきたい みたいになっていく。

❤︎「いいね」「シェア」よろしくお願いします❤︎
  • URLをコピーしました!

This site is protected by reCAPTCHA and the Google Privacy Policy and Terms of Service apply.

コメント

コメントする

目次