自分の感情に正直で、隠そうとしたり保護しようとせず、 気を反らそうとせず、怒りを押し殺そうと思いません、 私は恨みや妬みや嫉妬を押しのけるつもりはありませんと言って、 どんなものであれ真に歓迎することです。
イエスは怒りを持つべきではないとは決して言っておらず、 怒りは決して正当化されるものではないと言っているだけなのです。
感情を歓迎し、出てくるのを許可してそれらが出てきたら、 この感情を抱くことが正当で理にかなっているという理由を自我で正当化しないで下さい。
なぜなら怒りは正当化されないからです。
あなたは自分の怒りの正当な理由など見つけることはありません。
「自分ではない誰かに不当に扱われている」と信じない限り “怒り” は起こりません。
外側にいる誰かによって不当に扱われたとしたら、 それが怒りの条件になります。
イエスは怒りを強いるものは外側にはないと知っているので、 「それを正当化しないように」と言っているのです。
それがあなたが立ち止まり助けを求める時です。
自分の怒りを正当化できる理由の代わりに立ち止まり、 「私は自分で考えているような理由で動揺しているのではない」と言う時です。
イエスは言っています。
「それをやめて立ち止まり聖霊に振り向きなさい」
「私へ振り向いてその怒りを差し出しなさい」
「あなたが惜しみなく差し出せばその怒りをあなたから取り除こう」
「しかし怒りを正当化してはならない」
「あなたの兄弟姉妹や世界や環境や時間と空間の中の何かに目を向け正当化し始めるのはやめなさい」
なぜなら「あなたがやる事はすべて自分をループに陥れるだけでそれこそが地獄なのだから」
イエスは私たちを地獄のループに留まらせておきたくはないのです。
イエスは私たちが天国へ目覚めることを望んでいるのです。
それほどこの道は非常に単純なのです。
そしてまったく容易には見えないことについて既にこれまで述べてきましたが、 何も遮るものがなく直接的なのです。
イエスは言っています。
もしあなたがこのコースが指し示すものを経験していないのだとしたら、 あなたはコースが求めていることをやっていないのかもしれない。
イエスはあなたに任せますねと言っているわけじゃなくて、
「あなたに指示を与えます、導きを与えます、助けを与えます」
「どうか私とつながり、私の心を共にしてほしい」と言っているのです。
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