聖霊の計画に自分を捧げる

(ファンクションについて。2022.11.12 YouTubeライブより)

自分の馴染み深いものの見方、解釈の仕方、決めつけ、知覚の仕方を全部、

「間違っていたい」

って聖霊に捧げてしまって、この世界を上から眺める聖霊の視点から、聖霊といっしょに眺めながら、聖霊の計画に自分を捧げ切っていく。

そこにその流れに自分を与えていくと、

そこで自由を感じられないはずがない。

平安を感じられないはずがない。

幸せを感じれないはずがない。

喜びを感じれないはずがない。

愛を感じれないはずがないですね。

そういう経験をね、多分みんなの中でしていると思います。

本当にそのファンクションに身を投じるとか、自分の計画を手放して、その聖霊から与えられている計画に、その限界を超えたところに自分をその連れて行ってくれる、聖霊の計画に自分を与え続ける。

自我は「(これは)犠牲を伴う、犠牲を払うはず。喪失があるはず。そんなことしたら失うものがある、絶えないなんか自分の守るべき何かあるじゃないか。もったいないよ」みたいに、喪失を信じているので、犠牲者感覚が絶対に伴うって信じてるんですけども、実は逆で、聖霊の限界を超えさせてくれる聖霊の計画に、自分を与えないことが多大な損失で。

聖霊の計画に、自分を今できる限り与え尽くした時、この世界でもっと最もお得なそのお得なことが自分の人生に運ばれてきます。

取引なしに、計画なしに、幸せを感じれる。

条件付け全く関係なく、自由を感じられて、幸せを感じれて、喜びを感じて、愛を感じれて、兄弟との一体感を感じることができる。

こんなお得なことはないです。

もうなんか、

「聖霊に私の人生に介入させない場合、私が幸せになれるはずがない。もう地獄だ。」

っていう感覚なんだよね、私の中では。

個人的な、肉体的なメリットのために自分の人生、お金や労力を使うなんてもとてもじゃないけどできなくて、

「いや、もういいです!私は本当にあなたにこの自分の信念・欲求・考え・ものの見方、全部あなたにあげますから、あなたがどんどん入ってきて、あなたによって私の人生を運んでください」

って、もうここにしかメリットがない感覚がある。

もちろん 投影もするしいろいろ抵抗もするんだけど、聖霊にどんどん入ってもらって介入してもらわない限り、私は幸せになれないっていう感覚。

私と聖霊との、私と神との、今まで断絶されてきた、ブチってちぎれてしまったその線が、断線がちゃんとこう修復されて、聖霊と私、神と私のその断線みたいなものが、

「私をどうぞ使ってください、あなたがやってください、あなたに介入してほしいです」

って求めた時、この断線が修復されていくんだよね。

そして、聖霊や神からの電力がやってくるようになるんだよね。

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